小説に具体的な地名やブランド、実際にあるレストランなどが現れると、イメージの喚起力が違います。
特に取り入れ方がうまかったのは、007シリーズで有名なイアン・フレミングでしょう。オーデコロンやお気に入りのシャツなどこだわりのものが取り入れられていて、ジェームス・ボンドという架空のキャラクターを個性的に感じさせることに成功しています。
さて、本日は本に登場した音楽を取り上げたいと思います。
一冊目は、以前にもご紹介したE・ケストナーの「一杯の珈琲から」
この小説は、ザルツブルグ音楽祭が舞台なので、当然コンサートの話題が登場します。
主人公が訪れるミラベル公園やカフェなど、観光地小説といってもいいでしょう。
さて、コンサートの場面は何度も登場しますが、物語の中盤でモーツァルトのコンサートが出てきます。
指揮者が実在のベルンハルト・パウムガルトナーなので、たぶんオーケストラはモーツァルテウム管弦楽団でしょう。
音楽はまったくすばらしかった。モーツァルトがまだ二十歳にならなかった頃の作品が二つ演奏された。「イ長調交響曲」が一つと、イタリアの大家の演奏によるヴァイオリンの協奏曲が一つ。フランス人の女の声楽家がアリアをうたい、最後は交響曲第三十六番「リンツ」で終わった。ホールは残念ながら中くらいの入りだった。その代わり聴衆の中には、切符売場で「イェーデルマン」の指揮者はマエストロ・トスカニーニか、などと訊くような俗物は一人もいなかった。いな、芸術家たちとその聴衆たちとはなごやかに融け合った。そしてパウムガルトナーはわたしの心に適った指揮者だった。
モーツァルト十代の「イ長調交響曲」というと、第21番や第29番などです。私は第29番が好みなので、勝手に第29番を頭に浮かべながら本を読みました。名指揮者トスカニーニの名前しか知らない観光客を揶揄する部分もありますが、あまり辛辣にならないところがケストナーの美点と言えるでしょう。
二冊目は、F・ブラウンの「消された男」私立探偵エド・ハンター シリーズの六作目です。ソフトなハードボイルド(妙な言い方ですが)で軽妙な味わいが特徴の良作です。主人公はトロンボーンを演奏するのが趣味です。
わたしはトロンボーンを持ち出して、きれいにみがきあげると、アルペジオで軽く音階を吹き鳴らした。私は最強音で吹いたことはない。たとえ軽く奏するにしても、トロンボーンを吹き鳴らして、だれにも文句をいわれない下宿屋なんてありはしないから、やらないまでだ。
つぎに、ブルーベックとデスモンドのレコードをかけ、デスモンドのサキソフォンに合わせてしばらくいっしょに演奏した。 ーデスモンドの楽器が高い音域にはいるたびに、一オクターブ低い音を出した。わたしはこれをかなり上手にやってのけた。やがて、LPレコードが四曲目に入ると、デスモンドは演奏を休み、デイブ・ブルーベックのピアノ・ソロが巧妙な和音進行を主にしてかなり長く続くところになった。わたしはここでいっしょに合わせようとして、こんどはデスモンドのまねではなく、自分自身の即興演奏をやったーだが、結果はみじめだった。調子がはずれすぎてしまい、もとへもどすことができなかった。あきらめてトロンボーンをケースの中にしまいながら、レコードの残りの演奏に耳を傾け、あとはデスモンドにまかせた。
デイヴ・ブルーベックは、ウェストコーストジャズの有名なピアニストです。従来のスタンダードなリズムから少し変拍子へ変えて軽妙な演奏が得意です。1940年代にデビューして2012年に亡くなる寸前までプレイし続けたいきの長いジャズピアニストです。
有名なテイク・ファイブはジャズに興味がない人でも一度は耳にしたことがあると思います。アリナミンドリンクのCMでもかつて使われていましたね。デスモンドのアルトサックスは甘い音色で聞きやすいです。BGMにしても、気持ちよく聞けます。静かめのジャズが好きな人にはお薦めです。
三冊目は、アーサー・ポージスの「悪魔とサイモン・フラッグ」『第四次元の小説』というアンソロジーに収録されています。
このアンソロジーは、数学を素材にした小説を集めた珍しい短編集です。ハインラインの有名な「歪んだ家」も収録されています。
数学者のサイモン・フラッグは、400年間誰も解明できていない「フェルマーの定理」をなんとかして解明したい一心で、悪魔と契約を交わす。さて制限時間24時間以内に、悪魔はフェルマーの定理を解いて、サイモン・フラッグの魂を手に入れられるのか。というお話です。
4時間後、夫婦がすわってブラームスの第三交響曲を聞いていると、悪魔はふたたび現れた。
「ぼくはもう、代数と三角関数と平面幾何の基礎をやったぞ。」
と彼は誇らしげに宣言した。
サイモンは、彼におせじをいった。
「なかなか速い。きっと、きみなら、球面幾何も解析幾何も射影幾何も、作図法も、それにもちろん非ユークリッド幾何学も問題じゃあるまい。」
悪魔はひるんだ。そして小声でたずねた。
「そんなにあるのか。」
「これはほんの一部にすぎないよ。」
サイモンはよい知らせを耳にした人のように、上機嫌だった。
「きみは非ユークリッド幾何学が好きになるよ。」
彼はわざと楽しそうにそういった。
「これだと図形で苦労することはないからな。これには具体的なものはなにもないんだ。そしてきみは、ユークリッドが嫌いなんだから……」
うめき声をひとつ残して、悪魔は古くさい映画のように消えてしまった。サイモンの妻はくすくす笑って、歌うようにいった。
「あなた、あなたは彼を、たいへん危なっかしいところに追いつめたらしいわね。」
「しっ。最後の楽章だ。すばらしい。」
ブラームスの交響曲は4つありますが。人気投票をすれば、多分一番人気は第一交響曲、二番人気が第四交響曲で、第三交響曲はダントツの最下位でしょう。
ところが、ひねくれているのか私はこの第三交響曲が一番好き。ほかはほとんど聴きません。この曲の最終楽章は非常に珍しいエンディング。フェードアウトするように徐々に静かに終わるのです。でも途中はとても情熱的でしかもブラームス特有の過剰な色づけがなくスタイリッシュ。テンポの速い演奏がお薦めです。
一般的な小説は物語の流れを楽しむことが中心でしょうけど、それぞれの場面にさり気なく入れ込まれた細かい描写を楽しむことも本を読む喜びですね。植物が好きな方は小説の中の植物の扱いを食い道楽の方は、食べ物の扱いを、注意深く読むと面白いと思います。